2021.02.16
閑・感・観~寄稿コーナー~
東京毎友会のホームぺージの掲載された「雲仙普賢岳火災流取材拠点『定点』から取材車両など掘り起こし ― 発生から30年、災害遺構整備に募金活動」を、大阪毎友会のホームページにも転載させてもらいました(直前の記事=「先輩後輩」欄の掲載)。その中に出てくる「カメラマンの石津勉さん」は、大阪本社写真部から西部本社写真部に移った記者でした。そこで、同期の嶋谷泰典さんに、石津さんの思い出や同期で取材拠点だった「定点」を訪ねた時の様子を、執筆してもらいました。(梶川 伸)
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西部本社写真部の石津勉さん(当時33歳)も犠牲になりました。4カ月後には、大阪本社に戻ることが予定されていました。
ローテーションで早めに現地番を交代し「ちょっと上がってくるわ」の言葉を残して行き、そのまま帰らぬ人となりました。そのタイトルで、遺作集も出版されました。
石津さんは1983年入社で私も同期。仲のいい期だったこともあり、大阪でのお葬式には、大阪本社はもとより、東京本社、西部本社からも多く参列してくれました。警視庁の泊まり勤務を代わってもらった者もいました。
弟の石津勝さんも同世代であることから、今も「同期」としてのお付き合いが続いています。勝さんは内装美術のお仕事もされていることから、2002年にオープンした雲仙普賢岳災害記念館建設の外部スタッフも務められました。命日の前後には毎年、大阪府茨木市の石津さん宅に83年組が集まって、仏壇を拝んだあと、勝さんを囲んで、勉君が好きだったバーボンを飲みながら、思い出話を交わします。
27回忌にあたる2017年、東京組も含めて6月3日に約10人が現地に集まり、この日だけ開放される「定点」に初めて足を踏み入れ、犠牲になった皆さんのこ冥福を祈りました。そのおり、土中に埋まった社有車の一部を草むらの中に見つけたのですが、それが今回掘り出されて、展示されるとのこと。関係者に感謝いたします。
以前私は、夕刊「憂楽帳」に、「風化させぬ」というタイトルで、コラムを書きました。でもその記事中、勝さんは「風化されるのはやむを得ない」と語っておられます。
83年組はほぼ全員が還暦となり、私のように退職していたり、キャリアスタッフになったりしています。でも少なくとも、その友情が薄れることはありません。災害30年の今年、改めて同期で現地に集まろう、という声が上がっています。皆、さまざまな思い出を持ち寄ります。私は、亡くなる半年ほど前に、福岡の立呑屋で、安いてっさに舌鼓を打っていた石津君の笑顔が、一番の思い出となっています。
(元広告局、嶋谷 泰典)