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1936年ベルリン五輪「友情のメダル」誕生まで ― 元大阪本社運動部・長岡民男さんの回顧録=東京毎友会のHPから

2020.10.08

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 元大阪本社運動部の長岡民男さん(56年入社、89歳)が同人誌『人生八聲』24巻(2020年10月発行)に、1936年ベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」秘話を書いている。レニ・リーフェンシュタール(2003年没、101歳)女性監督の名画である。

 沢木耕太郎著『オリンピア—ナチスの森で』(集英社1998年刊)によると、棒高跳の決勝は8月5日午後4時から、午前中の予選を通過した25人によって争われた。

 3m60から始まって、4m15をクリアしたのは、日米5選手。4m25で世界記録保持者のウィリアム・クレーバーが失敗、優勝争いは4人に絞られた。

 日本の西田修平(早大→日立製作所)と大江季雄(慶大)、アメリカのアール・メドウス、ウイリアム・セフトンの4選手である。

 「午後8時、4㍍25の試技が終わると完全に日が暮れ、場内に13万ワットのライトが点灯された。雨は上がっていたが、外気の温度は急激に下がってきて、西田も大江も用意した毛布にくるまって体を暖めはじめた」

 バーは4m35に上がった。これをクリアしたのはメドウス1人だけで、メドウスの金メダルが確定した。

 2位は日米3選手による順位決定戦となったが、アメリカのウイリアム・セフトンが脱落、西田、大江両選手のメダル獲得が決まった。

 「2人は長い闘いに疲労していた。日章旗が2本揚がることは決まったのだ。別に同国人の2人で争うまでもない。西田が試技をやめると伝えると、審判員も了解してくれ、そこで競技は終了ということになった。すべてが終わった時、午後9時を過ぎていた」

 表彰式は、翌日回しになった。4m25を1回目に跳んだ西田が銀メダル、2回目に成功した大江が銅メダルと決まった。

 表彰式で2位の台に大江を上げたのは西田だった。「次の1940年東京五輪で金を狙うのは大江だから」の配慮だった。

 「だが、1940年の東京大会が幻となり、大江がフィリピンで戦死する未来は、このとき誰にも見えていなかった」と沢木は結んでいる。

          ◇

 『人生八聲』には、西田さんから直接聞いた話として、こう書かれている。

 《「あれはおかしいんだ。2位決定戦をやらないのだから2人とも2位(銀メダル)ですよ。当時のルールでは決定戦をやって順位を決めるんです」》

 1964年東京五輪で、西田さんは陸上競技の審判長をつとめ、長岡さんは大阪本社運動部からオリンピック取材班に派遣され、国立競技場で陸上競技を取材した。

 記録映画「民族の祭典」の撮り直しのことにも触れている。

 《「皆さん、明日はフィナーレです。全競技が終わったら、ポール(棒)を持って選手村の練習場に集まって下さい」。レニさんは5人に再撮影を告げた》

 《3m80から始まり4m20まで来ると、選手それぞれのフォームに個性がにじみ出るのが、映画人にもわかるようだ。

 「みなさん、軽々と跳んでいるけど落とすシーンも欲しいな」というレニさんの求めには笑いが渦巻いた》

 《西田さんが言う。「映画館で見て実写か、撮り直しかの区別なんかつきませんよ。撮影した人たちと我々選手以外はね」》

 2020東京五輪を前に、昨年12月21日(土)東京・京橋の国立映画アーカイブ(旧 東京国立近代美術館フィルムセンター )で午後1時から「民族の祭典」、4時から「美の祭典」が上映された。私にとっては、この2作品とも2度目だったが、棒高跳のシーンが撮り直したものも取り込まれているとは気づかなかった。

 《棒高跳のシーンは実写80パーセント、補強撮影20パーセントといわれる》と、長岡さんの原稿にあった。

 「友情のメダル」は、現在、早稲田大学史資料センターに、戦死した大江のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館に保存されている。

(堤 哲)=東京毎友会のホームぺージから(2020年10月6日)

 

3位の台に立つ西田(手前)と大江
銀・銅半分の「友情のメダル」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(東京毎友会→随筆集)

https://maiyukai.com/essay