2026.09.29
閑・感・観~寄稿コーナー~
古くからの友人からメールが届きました。
「中村さん、哲学とはどういう学問だと考えていますか?私は『あすをより良く生きるための先人の知恵』と勝手に解釈しているのですが、本当はどうなのでしょうか。イタリアの大学で哲学を学んだ体験からわかったこと、一度聞いてみたかったのですが‥‥」
そうです、日本にいた時はまさに私もそのような受け止め方でした。哲学者と呼ばれた人たちが残した言葉とか、誰それの〇〇論とはこういうことだ、といった話から受けるイメージなのでしょう。私が哲学科を選んだのは、「哲学がどういうものかを知りたい」という理由でしたが、ばく然と「先人の知恵をなぞる」みたいに思っていたことは否めません。でも、ボローニャ大学での授業を通じて、どうやらちょっと違うようだと気づきました。
哲学科の自由選択を含む履修科目の領域は、とても広く、つながりがあるようでない、いわば何でもありでした。1年目に「美学」「科学哲学」「道徳哲学」「科学史」といった授業を受けました。2年目は「生命倫理」「心理学史」「近代美術」「エトルリア文明」などで、3年目は「女性たちの歴史」「教育学」「古代医学」などでした。

プラトン、アリストテレス、ヒポクラテス、ガレノス、クザーノ、スピノザ、ベーコン、ロック、デカルト、ニーチェ、カント、フロイト、ボーヴォワール、ハーバマスらが考えたことを知りました。一つ一つの科目は歴史的な背景も含め興味深いものでしたが、彼らの言葉や考えをなぞってもあまり意味はないことに気づきました。それは揺るぎない正解とか、最終的な結論とかではなく、その時々の見方、考え方、問いの立て方にすぎないと思えたからでした。授業で何人もの教授がよく口にしたのは「じゃあ、あなたはこれについてどう思う?」でした。
世の中のさまざまな事象に対して「どうなっているのだろう?」「どうしてなのか?」と考え、「だとしたら‥」「もしかすると‥」と問いかけ、あるものの見方について「本当にそうだろうか」と疑ってみること、その過程自体が哲学でした。どうなっているか、なぜなのかを知りたい、謎とか不可解と言われることを解き明かせないだろうかという思いの先に哲学があるのです。
哲学的な問いというと、存在とは何なのか(存在論)、人はどうやって物を知るのか(認識論)、何が正しく何がいけないのか(倫理学)、どのような意味があるのか(価値論)などが思い浮かびます。こうした問いの答えはすぐには出てこず、中にはいまだに答えがない、実に回りくどい、まだるっこしいものです。しかし、答えが簡単に見つからない問いほど面白いと考えるのが、哲学の世界でもあります。
哲学科の同級生は100人くらいでしたが、半分以上は女性でした。その中で仲良くなったマルタは優等生、秀才でした。彼女に一度、尋ねたことがあります。「哲学を学ぶと、何が変わるのだろうか?」。しばらく考えた後、マルタは言いました。「政治がもっとよくなるんじゃないかなと、私は思う」「人々はお腹じゃなく、頭で考えて投票するようになるだろうし」

ある授業で、教授が語った言葉を思い出しました。「イタリアをはじめ、今のヨーロッパの政治指導者で、大学で哲学を学んだという者はほとんどいない」。目先の損得にとらわれ、そこにある何かに対応しているだけの政治。理念のないポピュリズムが幅を利かし、人々もそれに踊らされ動かされる。平然と政治を取引(ディール)と呼ぶ者まで現れた。それらは、人々が哲学を軽視しているからだと言いたかったようです。
私が授業を通じて親近感を抱き、その姿勢に共感をおぼえたのは「理論哲学」で取り上げられたヤスパースです。画家ゴッホの言動と彼の作品について研究した論文がテキストで使われました。考え方の基本は「他者の精神状況(その人の本質)を理解するには限界がある」「決めつけたり、わかった気になったりしてはいけない」というものでした。夢判断や催眠術を使って潜在意識にも踏み込み、「すべてを説明できる」と言い切ったフロイトへの批判でもありました。
ヤスパースは、統合失調症のゴッホが抱える状況について、強引に分析して決めつけ、何らかの解釈や結論を導き出そうとはしません。「了解不能だ」としながらも、彼の幻覚や妄想、それらが影響している絵画作品が彼の精神世界で起きている現実なのだと向き合う。 そして、ある事象や人物についての理解を、了解不能から少しでも進めるためには「対話」が欠かせないと述べています。その対話こそが哲学的な営みなのだというのが彼の考えでした。
私たちは「確かな答え」や「納得できる結論」を早急に求めすぎています。何らかの答えが出るまで立ち止まったり、自ら問い続けたりする姿勢を失いつつあります。すぐに出てくる答え、わかりやすい答えに飛びついてしまいます。問いかけて考え、対話するのではなく、反応して決めつけ、すぐに行動できるのが大事なのだという風潮でしょう。AIがもてはやされる時代になって、その傾向はますます強くなりました。哲学の世界における探求は、効率を優先し手間や時間を省き、コストパフォーマンスにこだわる流れとは対極にあるでしょう。

そんな哲学なんて浮世離れしている、もはや時代遅れと片付ける人もいるかもしれません。しかし、そもそも私たちは非効率な存在で、手間のかかる生き物です。そして人間が2000年以上かけて考え続け、それでも解けない問いが星の数ほどもあります。例えば「アニマ(感情や意識の源)は体のどこにあるのでしょうか?」。ギリシャ時代の医学者は真剣に考え、人間を観察し死体を解剖しました。心臓か、脳か、肺か‥‥。大昔の人間に比べ、私たちは格段に進歩して優れているでしょうか。いいとこ、どっこいどっこいでしょう。知っていること、できることがちょっと増えたぐらいで、何もかもわかった気になっていないでしょうか。
ボローニャ大学で哲学に接して、私はこうしたことに気づかされ、考え続けています。
(元経済部、中村 秀明)